カラスヤサトシ「結婚しないと思ってた」

「結婚しないと思ってた」をなぜ自分はあれほど面白いと思ったか、ということについて考えると、この作品が恐ろしく複雑な構造をしていることに考えがいたる。なにしろ、200ページ中150ページが恋愛に関するルポマンガで、残り50ページが現在の奥さんとの馴れ初めから出産に至るまでの過程を描いているエッセイマンガ(あとあと「彼女編」と呼ぶ)という構成になっており、さらにその両者において、「モテない中年・片岡聰さん」と「漫画家・カラスヤサトシ」の物語が平行して続いているのだ。

といっても、ルポマンガのほとんどがそうであるように、前半は作品内で片岡聰さんとカラスヤサトシは同一の存在として描かれる。というか、その差異が意識されたとたんに、ルポマンガはその説得力を失う。片岡さんとカラスヤが同一であると認識しているからこそ、読者である私たちは素直にマンガで描かれる事象を、自分の意識や感覚と結びつけて楽しむことができるからだ。しかし、「結婚しないと思ってた」において、片岡さんとカラスヤは次第にズレはじめる。

はじめカラスヤのお見合いや恋愛に関するルポが描かれるこの作品は、中盤なぜか編集K城にフォーカスを当てたエピソードが続く。K城はキャラが立っているのでおもしろいのだが、まとめて読んでいるとシフトチェンジが行われたのは明らかだ。そのあたりの事情は、数話おきに挿入されているカラスヤと編集K城による裏話を読めばわかる。ちょうどこの時期にカラスヤは現在の奥さんと出会っている。つまり、彼女ができたのだ。

ここでカラスヤが片岡さんとして出会った女性の存在を伏せ、K城を中心にしたエピソードを重ねているあいだ、カラスヤと片岡さんは乖離している。もっとも、マンガと現実が違うのはきわめて当然のことなのだけど、この作品の場合はそれをすぐさま明かしていることに意味がある。そのとたんに、一つのマンガのなかで二つの物語が進行していくことになるからだ。もっとも、彼女編に入るまでは、片岡さんの物語は描かれない。ただ、あることを読者が認知することによって、存在する。そして、雑誌掲載時はただのルポマンガだったものが、「嘘をつかずに、彼女の存在を描かないための手段」としての側面をもつ。背後に片岡さんの物語があることが明らかになることによって、カラスヤのマンガが変質する。

そして、彼女編に入ると、構図が逆転する。ここでは片岡さんの物語が描かれ、そしてその背後にカラスヤサトシの物語がある。エッセイ漫画家として自らの生活をマンガにしてきたカラスヤにとって、彼女の存在という日常の変化はそのままマンガ家としてのカラスヤに影響を与える。
その影響をこの作品は、編集者との関係を通じて描いているといえる。たとえばこの作品の担当であるK城は、彼女と出会った翌日から一緒に暮らし始めたカラスヤに対し、明らかに疑念を向ける(裏話では彼女を存在を伏せ連載を行っている間、カラスヤとの仲が悪くなっていったと明かしている)。他の編集も同様に否定するなか、ひとりだけカラスヤを肯定する編集がいる。T田だ。

カラスヤサトシ(単行本でのタイトル)」の編集であるT田は、作品内では徹底的に腐されているが、カラスヤにとっては10年を越える付き合いであり、また出世作の担当者でもある。そんな彼が発した「全然問題ないっスよ!」という言葉は、片岡さんだけではなく、漫画家カラスヤの背中をも押したのだと思う。その後石垣島への旅行や震災、そして彼女の妊娠といったイベントを経て、片岡さんは結婚へと突き進んでいくが、まずこのT田の言葉がなければ、そこにたどり着くこともなかったのではないか。

震災のあった3月、カラスヤは彼女の存在をマンガに描くことを伝える。そのとき、片岡さんとカラスヤサトシの物語は、二つの結実を生み出すひとつの結末に向かっていったのだと思う。一方では子供ができ(そのとき彼女はすでに妊娠していた)、そして一方では非常にいびつな構成をとりながら、それゆえに重層的な面白さを持つこの作品が生まれることになったからだ(吉田豪が「キラ☆キラ」のポッドキャストで語った内容によれば、このときにK城は連載の打ち切りを通告するつもりだったが、カラスヤの申し出を受けて継続を決めたのだという)。