「一人の芭蕉の問題」

 昼間、どこかの市で最高気温の記録が塗り変わっただとか、そんな話をしているテレビを消して、リュックサックを持った一人の芭蕉はゆっくりと玄関を出た。もう一人の芭蕉を探すためである。
 アパートから駅までをつなぐ、国道沿いの一本道はもう静まり返っていて、時折サラリーマンが帰途を急いでいるのとすれ違うだけだった。駅に着いた一人の芭蕉は磁気カードを改札に添えて、構内に入る。時刻表を確認すると、次が最終電車であることがわかった。ベンチに座っていると、やがて電車がやってくる。
 電車には誰ひとりとして乗客がいない。一人の芭蕉は座席に腰掛ける。
 もう一人の芭蕉を探す、といっても、あてなどない。それどころか、もう一人の芭蕉が、この世に存在するという証拠すらない。それでも一人の芭蕉は、もう一人の芭蕉がどこかにいると確信してしまったのだ。だから、探さざるを得ない。
 一人の芭蕉はリュックサックのなかにある、ただひとつのものを思う。夕食にカレーを作ったときに、人参や何かを切って、洗ってすらいないまま持ってきたそれには、野菜屑がまだへばりついていた。なぜそれを持ってきたのか、一人の芭蕉は自分でもわからずにいる。もう一人の芭蕉を出会ったら、自分はそれを殺すのだろうか。
 一人の芭蕉は目を瞑った。
 自分のようであり、しかしどこかで決定的に違っていて(例えば眼の色や、耳の形、それら複数……)、いくらかぼかしをかけたように曖昧な輪郭をしたもう一人の芭蕉の内部に、ゆっくりとそれは沈んでいく。一人の芭蕉の耳には砂漠のようなノイズが延々と流れ込んでいて、それ以外の音をすべて遮断していた。
 そのとき、それともう一人の芭蕉の間隙から、赤い液体が流れだした。と思うと、液体は不自然なほど波打ち、試行錯誤を繰り返すようにうねる。……やがて、少しずつ形を成していく。色も変わり、複雑なグラデーションを帯び始めた。その頃にはもう疑いようがなくなっていた。三人目の芭蕉が、もう一人の芭蕉から産まれている。そしてもう一人の芭蕉からは、まだ赤い液体が流れ続け、無数の芭蕉へと変化していくのだった。無数の芭蕉は無秩序に蠢きながら、一人の芭蕉のもとへと近付いていた……。
 そこで、一人の芭蕉は眼を醒ました。ただ眼を瞑っていただけなのに、眠ってしまっていたらしい。
 知らず荒くなっていた呼吸を整える。
 ……それにしても、この電車、全然止まりそうにないな。確認せずに乗ってしまったけど、急行だったか、快速だったか――
 そこまで考えたところで、強襲されたように、身体の奥から塊のような眠気が再び迫り上がり、拡散し、脳天まで届いて……、線路の継ぎ目が描く規則正しい拍に導かれるように、一人の芭蕉は再び眠りへと落ちていった。