ジョン・バンヴィル/海に帰る日

静かな小説。あまりに静かなんで、一日で読んだのだが、その間に二回寝た。大丈夫かオレ。例によって授業のために書評書いたんで、出てきたら貼る。

 私は非常に記憶力が乏しく、一週間前に読んだ本の話がまともにできないことすらある。そんな私からすると小説の語り手などはたいてい異常なまでに記憶力が良く、うらやましくなるほどだ。しかしその記憶の不確かさを描いた小説もまた存在する。たとえばカズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』は「事件」という記憶を探り出す、という探偵小説の形式を用いながら、「信用できない語り手」の問題を精緻に描いた力作だった。そのカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』と二〇〇五年のブッカー賞を争い、受賞した本作もまた、記憶のあいまいさをめぐる物語である。
 物語は語り手である老美術史家マックス・モーデンが〈シーダーの家〉と呼ばれる建物を描写するところから始まる。マックスの語りは現在、そして二つの過去を切れ目なく往復するので、読者はなかなかそれぞれの姿を捉えることができない。が、読み進めるにつれ、一年前に病に倒れた妻や現在マックスが置かれている状況、そして子供のころの記憶といった像が少しずつ明らかになっていく。
 幼いマックスとその家族がサマー・ハウスだった〈シーダーの家〉に滞在していたころ、やってきたのがグレース一家だった。日に焼けたミスター・グレース、口の利けない双子の弟マイルス、そして三人の女たち。まずマックスが魅かれるのが肉感的なミス・グレース。しかしあることをきっかけに彼女への思いは醒め、そして次の女、双子の姉クロエが現れる。奔放な性格の彼女とマックスは親しくなり、二人きりの濃密な時間を過ごすようになる。だが、三人目の女、ローズが語りの前景に現れたとき、彼らとの日々は終わりへと舵を切る。
 中盤において、マックスは「最近ますます強く感じるのだが、わたしにとっては、あらゆるものが別のなにかもでもあるらしい」と語る。その独白の通り、彼にとっては、一つの物語はほかの二つの物語でもあるのだろう。二つの過去と現在に共通しているのは、それぞれの果てに〈死〉の予感が待ち構えていることだ。妻の死を経て、〈シーダーの家〉に帰ってきたマックスは、身体の変調を語りのはしばしに挟み込みながら、それでも生きる。そうすることが彼にとっての、現在でもある二つの過去の死者たちへの弔いとなるからだろう。その力強さが、けっして派手ではない本作に一本の筋を通している。
 今年になって作家の佐藤亜紀が翻訳に参加した『バーチウッド』と本作があいついで刊行され、このアイルランドの作家に注目が集まりはじめているようである。静かさに満ちた小説であるが、それゆえにそこにある言葉と、紡がれる物語にいいようのない寂しさと豊かさが宿っている。

海に帰る日 (新潮クレスト・ブックス)

海に帰る日 (新潮クレスト・ブックス)