「それが雪だった時に」

 新しい言葉がたくさん落ちていた。全部拾い上げて、自分のものにする。言葉を交番に届けなくてはいけない、という決まりはない。口下手な自分が人と滑らかに会話するには、こうするしかないのだ。
 しかし手に入れた新しい言葉たちをうまく使いこなすことができず、会話はこれまで通りに不調で終わる。いくら言葉を持っていたところで、使いこなすことができなければかえって悪い結果をもたらす。どうやらこれは自分が持っていてもしょうがないもののようだ。手放すことにする。
 しかしどうやって処分すればいいのかわからない。悩んだあげく、拾った場所にまた捨てることにする。人通りのない時を見計らって、言葉たちを落とした。音もなく地面に言葉が散らばっていく。それを見て何かに似ていると思うが、それを表現する言葉はたった今捨ててしまった。

「夜と街(打ち捨てられた)。」

 何かの手違いで滅びなかった街がある。その街をのぞいてすべては滅んでいるので、数十年、数百年という長いスパンで見ればいずれは滅びるのだろうが、いまはまだ生き延びている。その街の外れに小さな公園がある。整備されることもなく打ち捨てられたも同然のそこに、ひとつだけその街の外から来た、「その街以外のもの」がある。人間の形をしたそれは、塗装が剥がれ落ちたベンチの下に潜んでいる。よく考えてみると根拠はないのに、見つかったら殺されそうな気がしていた。
 息を止めているかのように静かな夜、眠るでもなく眼を瞑っている彼の身体に、触れるものがある。慌てて身をよじらせた彼は、ベンチの脚に腕をぶつけて、痛みに悶絶する。それでも本能からの危機感から声は漏らさずにいた。痛みが引くころには彼にも、少なくともそれが危害を与えるものではないことがわかっていた。ならば犬猫の類かと探してみても見当たらない。もう逃げたのかと捜索を打ち切ろうとしたとき、ふたたび彼の右手がそれを探り当てる。それは近くにあるとおぼしきスーパーの特売チラシだった。派手な色使いで強調された数字。それは残り時間に眼を背け、日常を生きるために刻まれたものだと、彼は感じた。
 一度息を吐く。夜が空けたら公園を出ようと、決める。「その街のもの」になるために。

「410 Gone」

 手の中にある小さな箱、それを見てわたしはわずかに溜息を吐いた。ラッピングのためのリボンに挟まっていた紙片には、《お返しです》と丁寧な筆跡で書かれている。その言葉が何を意味するのか、はじめは本当にわからなかった。もう何週間も他人とまともに接触していなかったのだから。
 あのひとがいなくなってから、ずっと眠っていた気がする。もちろん実際はそんなことはなくて、空腹に耐えかねて食事もしたし、最低限行わなくてはいけないことはいくつもあった。ただ、逆に云えば、それら以外の時間は、ずっとベッドのなかにいた。何かを考えようとすると、すぐ眠くなった。というか、その《何か》というのはあのひとに起きたことそのものであったのだけど。昼となく夜となく、わたしは眼を瞑っていた。眠っていることと起きていることの境目にわたしはいたかった。そうすることで、あのひとの居場所に近づけるのだと、思っていたのかもしれない。
 なぜあのひとがいなくなって、自分はまだいるのか、わたしはいまだにわからずにいる。いなくなりたいと思っているのではなくて、ほんとうに、ただわからない。今という一瞬があって、その次の一瞬までの時間が連続して命が続いている。そしてそれはいつか、不意に途切れる。あのひとが途切れて、わたしはまだつながっている、それが、その理由が、ほんとうに、全然、理解できない。眼の前の箱を見た。いま、少しでもわたしが力を入れれば、くしゃりとそれは潰れるだろう。誰かが、あのひとの命をくしゃりと潰したのだろうか。
 ――わたしは、でも、潰すことはせず、箱を開封した。リボンを解く指が痩せた気がする、当たり前か。
 なかから出てきたのは、小さな飴だった。鮮やかな赤に着色されている。苺味か何かだろうか。飴と、《お返しです》と書かれた紙片――錆び付いた思考力でそれらを結びつけるのは、至難の業だ。放棄しかけたときに、充電ケーブルが挿さったまま床に落ちている携帯電話が眼についた。拾い上げると、メールと着信が大量にあることがわかる。再び床に投げ置こうとしたときに、日付が視界に入った。それで、すべてがつながった。
 ……今日は、三月十四日、ホワイトデーなのだ。
 けれどそれがなんだというのだろう。わたしが送った唯一のチョコレートは、あのひとの手に渡ることなく――今はどこにあるだろう。掃除のおばさんか誰かが回収したのだろうか? まあどうでもいいことだ。とにかく、わたしのチョコレートを受け取ったひとが、いないことだけは確かなのだから。
 飴が入った箱は、部屋の扉の前に郵便物と一緒に置かれていた。郵便物として配達されたのではあればその状態で置かれるはずだから、おそらくこのまま入っていたのだろう。誰かが直接郵便受けに入れたのだ。
 届くはずのないものが手元にある。明らかにおかしいことが起きているのだけど、それ以上突き詰めてそのことを考える気にはなれなかった。飴を口に放り込んで、またベッドに戻る。――苺ではなくて、林檎の味がした。

 それからも毎年、飴は送られ続けた。誰にもチョコレートを渡していないというのに。

                       *

 月日は、わたしをベッドから引き離していた。何かしら感動の出来事があって劇的に立ち直ったというわけではなく――ただ、なんとなく、だった。少しずつ、何もしていないことがわたしのなかで負担になり始めていたのかもしれない。自分の部屋以外の世界とのかかわりを取りはじめた。もちろん元通りにならないものがほとんどだったけれども、繋ぎなおせるものもわずかにあった。それをよすがに手繰り寄せて、わたしは外へ出た。空白はあまりにも大きい。なかでもあのひとという空白は永遠に埋まらないだろう。それでも少しずつ、それは減りはじめていたと思う。

 最初のときに予想した通り、箱は郵便受けに直接入っていた。いつも同じ花柄の箱で、中身もいつも同じ林檎味の小さな飴だった。そして紙片には《お返しです》と書かれていた。
 本当は思いたかった、あのひとが送ってくれているのだと。そしてたとえばわたしが、あのひとにチョコレートを供えたりすれば、それは小さな物語の輪として完結したはずで、それはおそらくとても美しいものだったろう。でもわたしはそうは思えなかった。なぜならば、すでにいないものは、飴を送ることなど出来やしないのだから。
 そういうわけで、飴の問題はずっと放っておかれていた。本当にその気になれば、たとえば監視カメラを置くとかそういうことをすれば、突き止めることは不可能ではなかっただろう。けれどそこまでする気にはなれなかった。だから、放っておかれていたという表現は正しくないのかもしれない。放っておいたのだ。そうやってただ時だけが過ぎていた。

                       *

 その朝、自宅を出ると、見知らぬ男が立っていた。こうやって思い出そうとしても、うまく彼を描写できる言葉が見当たらない。確かスーツを着ていたような気がする。確か眼鏡を掛けていた気がする。確か――手提げ鞄を持っていたような気がする。髪型は……どうだっただろう。
 数秒、眼が合ったまま時間が過ぎる。
「あの――」
「いいかげん、チョコレートを下さい」
 まっすぐわたしを見つめたまま、男はそう云った。
「は?」
「チョコレートを下さい、と云っているのです。もちろん義理で構いません。市販のもので事足ります。ただなんらかのチョコレートを下さい」
「何を云って……」
「何を? 二月十四日にチョコレートの話をすることがおかしいでしょうか?」
 その言葉を聞いて、ようやく今日がバレンタインデーであることを思い出した。けれども、今のわたしにとって、それは何も意味しない記号だ。男はまくしたてるように続ける。
「毎年三月十四日に僕は飴を贈り続けました。チョコレートを受け取っていないのに、です。もう五年も続いているのですよ」
「五年も……」
「他人事みたいですね」
 小さく、男は笑った。
「あなたの恋人は、あなたからのチョコレートを見て……」
「あ、あれ、あのひとのところに渡ってたんですか」
「知らなかったんですか? はい、間際でしたが」
「そうなんですか。それは……」
 ――良かったの、だろうか?
「……話を戻して良いですか。あなたからのチョコレートを見て彼は、ホワイトデーにはお返しをしなくちゃな、と呟きました。もちろんそれが不可能だと悟ったうえでです。彼は僕を見て、代わりにお返ししてくれないかな、と云いました。正直に云えば、別に彼とは親しい間柄ではありませんでした。いくつもの偶然が重なって、その場に立ち会うことになったのです。おそらく彼はもう周りの人間を個々に認識することも難しくなりつつあったのでしょう。それでもそれは、僕の役目になりました」
 彼はわたしの言葉を待っていたが、何も云わないので、諦めたように話を続けた。
「周りの視線もあって僕は、わかったと云うほかありませんでした。それを聞いて、彼はゆっくりと眼をつぶり、毎年頼むよ、と呟いて微笑みました。……それが最後でした。冗談だったのかもしれません。そうだったなら、あまりにも性質が悪かったと、あえて僕はここで云いたいですけど」
「それからずっと」
「そうです。それからずっとです。三月十四日になると、早朝、あなたの家へ行き、郵便受けに飴の入った箱を投げ入れる。たいしたことではありません。けれどどう考えても不自然な行為でした。その不自然さは僕のなかで、耐え難いものになっていきました。チョコレートをもらってもいないのに、その返礼を贈るというのは、おかしい」
「そうですね」
「だから、チョコレートをください。今は持っていないでしょうから、そこのコンビニで買っても良いですよ。なんなら付いていっても……」
「無理です」
「そうですよね」
 走りすぎた演技のように、お互いの言葉が終わる前に自らの台詞を重ねていた。
「今この瞬間、僕はあなたから拒絶されました。僕はこれ以上あなたに飴を贈ることはできません」
「はい」
「僕は彼の意思が入った容れ物でしかありませんでした。そしてそうあるべきでした。そのうえで成り立っていたあなたとの関係は、僕の行動によって壊れました。もうあなたと会うこともないでしょう」
「……はい」
「さようなら」
 彼は背を向けて去っていった。ゆっくりと歩いていたことは覚えている。どこの角を曲がって、視界から消えたのかは覚えていない。わたしはぼんやりとそれを見届けていた。そしてようやくわかった。彼は死んだのだ。

「聞こえますか?」

 ……先輩! どうしたんですか、聞こえないんですか?
 そんなことより、仕入れたんですよ、あれ! ……いやだな、へ? って顔しないでくださいよ。蒐めてるって聞きましたよ、噂で。お前に漏れるようなところに話したつもりはない? へえ。まあでも、どこからか伝わっていくのが噂ですからね。とにかく、いいのを持ってますから、聞いてくれます、よね? 遠いですもんねえ。えんえん歩かなきゃあ……。

 彼はその日、何も予断を抱くことなく、と云えば聞こえはいいですが、正確に云うなら何も考えずに登校したんです。何せそれまで生きてきた十何年間、そんなことにはまったく縁がないまま過ごしてきたんですから。周りが浮き足立つその日も彼にとっては、なんてことのない一日に過ぎなかったわけです。いつもと同じように校門をくぐり、校舎に入る。で、そして靴箱を開けて、それに気付きました。
 それは小さな箱でした。少なくとも、彼はそのときそう思ったんです。これは箱だ、この箱はなんだ? 取り出してみると、その箱は包装されていました。つまり、そのための紙で包まれて、リボンで留められていたんです。そこまで認識してもまだ、彼は気付きませんでした。ふと、周りを見回して、別の生徒の話から、この単語をすくい上げるまでは。
 その瞬間に、彼の心臓は早く鼓動を刻み始めました。だってそうでしょう? この箱、そしてそのなかにあるものはまぎれもなく誰かからの――おそらく女生徒からの好意を象徴するものなのですから。さっきも云いましたけれども彼は、そんなものとはまったく縁のない時間を過ごしてきたんです。隔絶されていたといってもいいくらい。それが、ですから……。
 彼はすぐさま、箱を鞄に仕舞いました。それから意味もなく周りを見回しました。誰かに見られて囃し立てられるのが厭だったから、というのもあるでしょうけど、むしろ箱を靴箱に入れた張本人が、まだそのあたりにいるんじゃないかって気がしたからかもしれないですね。いるわけないのに。
 それから彼は一日、呆けて過ごしました。教室はそのイベントの話題でもちきりだったのですから、彼が呆けているのとそれを結び付けるのが自然だったようにも思えるのですけども、誰もそれをしませんでした。それだけ彼はそういうものとの関係が希薄であると思われていたんですね。授業が終わると彼は誰に話しかけるでもなく教室を出て行きましたが、誰も気にしませんでした。いつもそうだったからです。
 呆けたまま彼は、自宅に帰り着きました。なんしろ呆けすぎて、しばらく自分がなぜ呆けているのかもわからなくなったくらいですから、そうとう呆けていたわけです。いつものように部屋着に着替えて自室に横たわり、テレビのスイッチを入れて、それでやっとその存在を思い出しました。そうです。まず彼は、それを開封しなくてはならなかったのです。いそいそと彼は、鞄から箱を取り出しました。それは、鞄のなかで圧迫されたのか、わずかに歪んでいました。
 何しろ彼は焦っていました。さっきまでは呆けていて、今は焦っている。生憎リボンは硬く結ばれていて、不器用な彼にはなおのこと厄介な代物でした。爪の先端で結び目を解こうと、何度も試みるうち、滑った人差し指が箱に刺さりました。それで、そのまま爪は包装を貫通したんです。すると――
 ぞわっ
 ぞわわ
 彼の指を這い上がってくるものがありました。ひとつではなく、次々と、延々と。蠢いて、撫でて。そう、ちょうどこんなふうに……。それは蟲でした。連なって、集った。蟲はいつまでも彼の指を上っていきました。侵略するように、指を、掌を、甲を蟲の色に染め上げていきました。
 みっともなく叫びながら、彼は滅茶苦茶に蝕まれた右手を振り回したんです。けれど蟲はなかなか離れない。左手で落とそうとすると、そちらまで蟲に侵されてしまいそうで、それはできませんでした。手を離れて床に転げ落ちた箱からはいまなお蟲があふれ続けている。
 彼は部屋を飛び出して、台所へ向かいました。水で洗い流そうと考えたんです。たどり着いて、もちろんもっとも強い勢いで水を出し、その流れのなかに腕を浸しました。けれども、洗い流せない。腕にへばりついてるわけじゃないんです。蟲たちは腕をただ撫でていて、今にも落ちていきそうに感じられるのに、どれほど強く水を流したところで、いっこうに腕から落ちていこうとしないんです。そのくせ肘から上にのぼってくることなく、腕に留まり続けていました。
 彼は水で洗い流すのを諦め、タオルか何かを通して落とそうとしました。けれども都合の悪いことに、視界にはそれに類するものは見当たりませんでした。でも、確か戸棚のどこかにはあったはずなんです。だから彼は戸棚を片端から開けていくつもりで、もっとも端にあったひとつに左手をかけて、そして引きました。するとそこには、
 ぞわわ
 ぞわっ
 蟲の影がありました。今にも彼の左手に渡ろうかというすんでのところで、戸棚を閉じることができたので、左手まで侵されることはありませんしたが、おそるおそる別の棚に耳を当てると、蟲どうしが微かに触れる、軽く、そして意識をざわつかせる音が届きました。そして他のどの棚からも、同じ音がしてくるんです。もはやそれら開く気力は、彼には残されていませんでした。
 すべてを諦めかけた瞬間に、ひとつの光が彼に差し込みました。だって、別に部屋はここだけじゃないんですからね。風呂場に行けばタオルなんてものはいくらでもあるわけですから。台所を出て、彼は廊下を駆けました。すぐにたどり着いた風呂場の扉は、閉ざされていました。すぐに扉を開けようとした瞬間、彼の背筋を予感が這いました。――まさか。
 扉に耳を当てるまでもありませんでした。自ら音を立てることさえしなければ、すぐに耳に届いたのです。さきほどまでとは比べ物にならない数の蟲たちが互いに触れ合う、音の群れは。彼は弾かれたようにそこから離れ、あらゆる部屋の前に立ちました。その扉はことごとく閉ざされ、そしてそこからは音がしました。さっき開けっ放しにして出たはずの自室も、閉ざされていたんです。
 彼は最後に、玄関に向かいました。いや、正確にいうなら、向かいかけました。けれどもその必要はありませんでした。気付いていたのです。本当は。玄関のほうから響く、その音はずっと、ずっと、大きくなり続けていたのですから。彼はゆっくりと、台所に戻りました。そこだけはまだ閉ざされていませんでした。
 彼はそこにある、ひとつのものだけを覚えていました。本当はもっと他にもいろんなものがあったはずなんですけど、意識まで蝕まれた彼にはそれしか見えてなかったんです。シンクに落ちていた包丁しか。彼は左手でゆっくりと包丁を握り締めました。右手では蟲が絶え間なく蠢き続けていました。蟲を自分から引き離すための方法は、ひとつしかありませんした。
 肉に食い込んだ刃が、神経を、血管を断っていく音が聞こえてくるような気がしました。それが、玄関から響く蟲のざわめきと重なり合ってひどいノイズとなり、脳味噌のなかをぐちゃぐちゃにしていきました。遅れて届いた激痛がそれらを断ち切ったとき、彼は意識を喪いました。
 ……そして、彼は覚醒したんです。そこは見慣れた台所でした。その床に、彼は横たわっていました。
 彼は何も思い出せずにいました。何か悪い夢を観たような心地でした。やれやれと思いながら立ち上がろうとして、彼は軽い違和感を覚えました。身体のバランスが取れないような……ゆっくりと視線を左半身に向けたとき、彼は自らの寸断された右腕から血液のかわりに流れ出る、蟲たちの姿を眼にしました。そしてそれと同時に、ひときわ大きなあの音が頭のなかから響いてきて――

 あ、やっと学校ですよう。ちょうどでしたね。けっこういい話でしょう? 蒐めてくれますよね?
 なんとか時間にも間に合ったみたいだし、さっさと履き替えて教室に……、あれ? 入ってるじゃないですか、さすが。今日は二月十四日ですからね。やっぱり顔も良いし性格も……どうしたんです、あれえ――まさか、聞こえるんですかあ、先輩?

「enable」

 整然と配置されたそれぞれの地区は、お互いに良い影響を及ぼしあいながら発展を遂げていた。ほとんど停滞することなく市の人口は増え続けていた。市民はみな市長であるわたしに感謝していた。わたしが何を考えているのか知ることもなく。

 ――……。

 耳障りな警告音で、意識がディスプレイに引き戻された。何かをぼんやり考えていた気がするが、それを思い出すことすらできなかった。まあ、どうせその程度のものだったに違いない。画像認証に刻まれた文字くらいに、自分の思考が読み取れなくなっている。
 ポップアップウインドウのタイトルバーには、《公害による健康被害》と記されていた。ウインドウには、いかにも海外のものといった感じの、毒々しいデザインの中年女性が青白い顔色でマスクを着けているイラストが添えられている。彼女がいうには、《市長! この事態は早急に解決されなくてはいけません! 市民は自分と家族の健康を害する黒く汚れた空気から逃れようと試みています。》ということらしい。
 公害に対する対策としては、公園や緑地を配置することで、ゴミ処理場や工業地帯から発生する有害物質を分解する、というものがあげられる。実際それまでそういった対策を施していたのだが、効果ははかばかしくないようだ。……仕方がない、もっと抜本的な対策をとらなくてはいけない。
 まず、セーブを行ってアプリケーションを終了させる。それから、実行ファイルと同じフォルダにあるセーブデータをあるフリーソフトに読み込ませる。セーブデータはもちろん暗号化されているが、このメーカーはすべて同じ形式を採用しているので、はるか昔に解析されている。数秒後には、一般的なテキストエディタで読み込むことができる文字コードに変換されたファイルが保存されていた。それを開くと、意味不明な文字列が羅列されているが、これには一定のパターンがあり、それを把握していれば自由にセーブデータを改造することができる。公害を示すパラメータを検索し、その値を《無効》を示すものに設定した。それを再び変換すると、読み込み可能なセーブデータが問題の箇所のみ書き換えられた状態で保存される。それをもともと保存されたものに上書きした。
 そして再びゲームを起動し、セーブデータを読み込む。うっすらと都市全体にかかっていた灰色の靄が霧散していた。これでもう二度と、市民が公害に悩まされることはないだろう。



 その隠しパラメータに気付いたのは、放射能汚染を無効にしようとしたときのことだった。間違った文字列で検索を行ってしまい、目的のところとは違う行にたどり着いてしまったわたしは、ふと違和感を覚えた。暗号化されたデータの群れは、とても理解しようのないものであったにもかかわらず、《ここ》には何かがあると感じたのだ。そしてそれはすぐ、試さなくてはいけない、という焦りに変わった。
 もちろん、下手をすると二度とプレイできない状況になりかねない。《その》パラメータを別のファイルにメモしてから、新しいセーブデータを作り、ある程度ゲームを進める。そしてそのセーブデータを、例の手順で書き換える。それまで無効になっていた《その》パラメータは、enable、有効になった。
 そしてふたたびゲームを起動するときわたしは、何を期待していたのか、今となってはあいまいだ。実のところ単調に感じ始めていたゲームへの新たな刺激、あるいは……。かたちのないものへの渇望がわたしを突き動かしていた。隠しパラメータの存在に気付いてから、パソコンの前を離れることなく二度、朝を迎えていた。
 立ち上がったゲーム画面には、一見何の変化もないように見えた。これまでの人生においても、何度も感じてきたようなおなじみの軽い失望を覚えながら惰性でしばらくゲームを進めていると、ふと、画面の右下にそれまで見たことのないアイコンが出現していることに気付く。パラメータを有効にすることで、このアイコンが表示されるになった、ということらしい。アイコンは三角形を組み合わせた抽象的な図柄をしており、そこから意味を抽出することはできなかった。
 軽い気持ちで、アイコンをクリックしていた。それまでの過程に存在していた、儀式めいた厳粛さは、失望を通過するなかで消えうせていた。実際、クリックしてもしばらくは何の変化もない。ふたたび失望のもとへ帰ろうとしたとき、瞬間のうちに、すべてが変わっていた。
 まずカーソルが違う。それまでの、指を象ったものではなく、円形のなかに十字が刻まれている――そう、照準のようなものに変化していた。すでに予感は、形にになってわたしのなかにあった。それを確かめるためには、右手の人差し指をわずかに動かすだけでよかった。だが、先ほどまで指が攣るほどに動かしていた指は、ひどく重たいものになっていた。どれほど力を込めても微動だにしない。どういう仕組みの結果としてそうなるのか理解できなかった。何ものかが身体の内奥からその動きをせき止めているとしか思えなかった。ただ、ここまできて引き返す道理などないのもまた確かだった。待ち続けた。
 そしてそれは、予想通りに突然訪れた。意志が後押ししたのか、あるいは何らかの身体の反応でしかなかったのか、とにかく人差し指はわずかに動き、マウスは軽い音を立てる。そしてそれと同時に、ビル群が爆発した、画面の中で。ホイールを使って画面を拡大する。高層ビルから落下する焼け爛れた人間の姿がはっきりとわかった。そこにさらに照準を合わせてクリックする。身体が分断され、散り散りになるのが見えた。
 すでに街は大混乱に陥り、自動車は衝突事故を起こし、列車は横転していた。あらゆる場所でクリックを繰り返した。それなりの時間をかけて作り上げた街が、あまりにも軽い音とともに崩れ去り、醜い本性を晒している。それは鉄骨であり、内臓であり、コンクリートの塊だった。手のなかにある小さな器械は、あらゆるものの内部を暴き出すトリガーになっていた。指が痺れるまでクリックを繰り返した。右上に表示されていた人口の数は瞬く間に減少していく。正直にいうならば、性的な快楽のただなかにあった。特に、少女をただの肉塊にしていく時などは。
 少しは抑えよう、とすら思わなかった。気がつけば、生きとし生けるものが滅びた世界をただ壊していた。痛みが走る指をマウスから離したとき、はじめて、体温が少しずつ下がっていった。そして、これが仮の世界だったことを思い出す。ハードディスクのなかには、これよりはるかに長い時間をかけて作り上げた、虚構の世界が存在する。それを破壊し、意味のないテクスチャの塊に追い込むときは、いったいどれほどのものがわたしを襲うのだろうか。
 ……作り上げなければいけない。破壊するために。



《市民の声》というメニューを選ぶと、そこには市長に向けた賛辞の言葉が連なっている。そのなかに紛れ込んだ小さな不満、たとえば犯罪が増えてきた、あるいは学校は足りない、そういったものを即座に解決していく。また評価が上がる。そうしながら新たな地区を建設することで、はじめは果てしなく広大なように思えた地図の余白は、少しずつ狭まっていく。すべてが埋まり、そしてそのすべてが完璧な発展を遂げたとき、それは始まる。街の人口はすでに300万人に迫ろうとしていた。理論的な限界も近い。
 今日も人々は健康的、文化的な生活を満喫していた。四角形のマップ、その外には何も存在しない、閉ざされた平和な世界。しかしそれは、破滅のために準備されている平穏にすぎない。わたしだけがそれを知っている。そのようなことを考えているあいだにも、終わりの始まり、わたしによってトリガーが引かれる瞬間は近づいていく。それは……きっと、明日にも。

終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった終わった

Silent Night

 夕暮れの空がゆっくりと降りてゆき、いつしか地面になる。なんだかふわふわした地面にはもう道路と歩道の区別すらなくなり、自動車や自転車や歩行者、あるいは動物、人に非ざる者、その他大勢が入り交じり、重なり、倒れていく。人や車や霊体の屍が散らばる。そこへ新たに空が落ちてくる、今度は朝焼けが。流れ出る血液やガソリンや魂で赤黒く変色した地面は、覆い被されて見えなくなる。同じことが繰り返されて、あらゆるものの死が積み重なった塔はその高さを増していく。ずっと。