「聞こえますか?」

 ……先輩! どうしたんですか、聞こえないんですか?
 そんなことより、仕入れたんですよ、あれ! ……いやだな、へ? って顔しないでくださいよ。蒐めてるって聞きましたよ、噂で。お前に漏れるようなところに話したつもりはない? へえ。まあでも、どこからか伝わっていくのが噂ですからね。とにかく、いいのを持ってますから、聞いてくれます、よね? 遠いですもんねえ。えんえん歩かなきゃあ……。

 彼はその日、何も予断を抱くことなく、と云えば聞こえはいいですが、正確に云うなら何も考えずに登校したんです。何せそれまで生きてきた十何年間、そんなことにはまったく縁がないまま過ごしてきたんですから。周りが浮き足立つその日も彼にとっては、なんてことのない一日に過ぎなかったわけです。いつもと同じように校門をくぐり、校舎に入る。で、そして靴箱を開けて、それに気付きました。
 それは小さな箱でした。少なくとも、彼はそのときそう思ったんです。これは箱だ、この箱はなんだ? 取り出してみると、その箱は包装されていました。つまり、そのための紙で包まれて、リボンで留められていたんです。そこまで認識してもまだ、彼は気付きませんでした。ふと、周りを見回して、別の生徒の話から、この単語をすくい上げるまでは。
 その瞬間に、彼の心臓は早く鼓動を刻み始めました。だってそうでしょう? この箱、そしてそのなかにあるものはまぎれもなく誰かからの――おそらく女生徒からの好意を象徴するものなのですから。さっきも云いましたけれども彼は、そんなものとはまったく縁のない時間を過ごしてきたんです。隔絶されていたといってもいいくらい。それが、ですから……。
 彼はすぐさま、箱を鞄に仕舞いました。それから意味もなく周りを見回しました。誰かに見られて囃し立てられるのが厭だったから、というのもあるでしょうけど、むしろ箱を靴箱に入れた張本人が、まだそのあたりにいるんじゃないかって気がしたからかもしれないですね。いるわけないのに。
 それから彼は一日、呆けて過ごしました。教室はそのイベントの話題でもちきりだったのですから、彼が呆けているのとそれを結び付けるのが自然だったようにも思えるのですけども、誰もそれをしませんでした。それだけ彼はそういうものとの関係が希薄であると思われていたんですね。授業が終わると彼は誰に話しかけるでもなく教室を出て行きましたが、誰も気にしませんでした。いつもそうだったからです。
 呆けたまま彼は、自宅に帰り着きました。なんしろ呆けすぎて、しばらく自分がなぜ呆けているのかもわからなくなったくらいですから、そうとう呆けていたわけです。いつものように部屋着に着替えて自室に横たわり、テレビのスイッチを入れて、それでやっとその存在を思い出しました。そうです。まず彼は、それを開封しなくてはならなかったのです。いそいそと彼は、鞄から箱を取り出しました。それは、鞄のなかで圧迫されたのか、わずかに歪んでいました。
 何しろ彼は焦っていました。さっきまでは呆けていて、今は焦っている。生憎リボンは硬く結ばれていて、不器用な彼にはなおのこと厄介な代物でした。爪の先端で結び目を解こうと、何度も試みるうち、滑った人差し指が箱に刺さりました。それで、そのまま爪は包装を貫通したんです。すると――
 ぞわっ
 ぞわわ
 彼の指を這い上がってくるものがありました。ひとつではなく、次々と、延々と。蠢いて、撫でて。そう、ちょうどこんなふうに……。それは蟲でした。連なって、集った。蟲はいつまでも彼の指を上っていきました。侵略するように、指を、掌を、甲を蟲の色に染め上げていきました。
 みっともなく叫びながら、彼は滅茶苦茶に蝕まれた右手を振り回したんです。けれど蟲はなかなか離れない。左手で落とそうとすると、そちらまで蟲に侵されてしまいそうで、それはできませんでした。手を離れて床に転げ落ちた箱からはいまなお蟲があふれ続けている。
 彼は部屋を飛び出して、台所へ向かいました。水で洗い流そうと考えたんです。たどり着いて、もちろんもっとも強い勢いで水を出し、その流れのなかに腕を浸しました。けれども、洗い流せない。腕にへばりついてるわけじゃないんです。蟲たちは腕をただ撫でていて、今にも落ちていきそうに感じられるのに、どれほど強く水を流したところで、いっこうに腕から落ちていこうとしないんです。そのくせ肘から上にのぼってくることなく、腕に留まり続けていました。
 彼は水で洗い流すのを諦め、タオルか何かを通して落とそうとしました。けれども都合の悪いことに、視界にはそれに類するものは見当たりませんでした。でも、確か戸棚のどこかにはあったはずなんです。だから彼は戸棚を片端から開けていくつもりで、もっとも端にあったひとつに左手をかけて、そして引きました。するとそこには、
 ぞわわ
 ぞわっ
 蟲の影がありました。今にも彼の左手に渡ろうかというすんでのところで、戸棚を閉じることができたので、左手まで侵されることはありませんしたが、おそるおそる別の棚に耳を当てると、蟲どうしが微かに触れる、軽く、そして意識をざわつかせる音が届きました。そして他のどの棚からも、同じ音がしてくるんです。もはやそれら開く気力は、彼には残されていませんでした。
 すべてを諦めかけた瞬間に、ひとつの光が彼に差し込みました。だって、別に部屋はここだけじゃないんですからね。風呂場に行けばタオルなんてものはいくらでもあるわけですから。台所を出て、彼は廊下を駆けました。すぐにたどり着いた風呂場の扉は、閉ざされていました。すぐに扉を開けようとした瞬間、彼の背筋を予感が這いました。――まさか。
 扉に耳を当てるまでもありませんでした。自ら音を立てることさえしなければ、すぐに耳に届いたのです。さきほどまでとは比べ物にならない数の蟲たちが互いに触れ合う、音の群れは。彼は弾かれたようにそこから離れ、あらゆる部屋の前に立ちました。その扉はことごとく閉ざされ、そしてそこからは音がしました。さっき開けっ放しにして出たはずの自室も、閉ざされていたんです。
 彼は最後に、玄関に向かいました。いや、正確にいうなら、向かいかけました。けれどもその必要はありませんでした。気付いていたのです。本当は。玄関のほうから響く、その音はずっと、ずっと、大きくなり続けていたのですから。彼はゆっくりと、台所に戻りました。そこだけはまだ閉ざされていませんでした。
 彼はそこにある、ひとつのものだけを覚えていました。本当はもっと他にもいろんなものがあったはずなんですけど、意識まで蝕まれた彼にはそれしか見えてなかったんです。シンクに落ちていた包丁しか。彼は左手でゆっくりと包丁を握り締めました。右手では蟲が絶え間なく蠢き続けていました。蟲を自分から引き離すための方法は、ひとつしかありませんした。
 肉に食い込んだ刃が、神経を、血管を断っていく音が聞こえてくるような気がしました。それが、玄関から響く蟲のざわめきと重なり合ってひどいノイズとなり、脳味噌のなかをぐちゃぐちゃにしていきました。遅れて届いた激痛がそれらを断ち切ったとき、彼は意識を喪いました。
 ……そして、彼は覚醒したんです。そこは見慣れた台所でした。その床に、彼は横たわっていました。
 彼は何も思い出せずにいました。何か悪い夢を観たような心地でした。やれやれと思いながら立ち上がろうとして、彼は軽い違和感を覚えました。身体のバランスが取れないような……ゆっくりと視線を左半身に向けたとき、彼は自らの寸断された右腕から血液のかわりに流れ出る、蟲たちの姿を眼にしました。そしてそれと同時に、ひときわ大きなあの音が頭のなかから響いてきて――

 あ、やっと学校ですよう。ちょうどでしたね。けっこういい話でしょう? 蒐めてくれますよね?
 なんとか時間にも間に合ったみたいだし、さっさと履き替えて教室に……、あれ? 入ってるじゃないですか、さすが。今日は二月十四日ですからね。やっぱり顔も良いし性格も……どうしたんです、あれえ――まさか、聞こえるんですかあ、先輩?