「enable」

 整然と配置されたそれぞれの地区は、お互いに良い影響を及ぼしあいながら発展を遂げていた。ほとんど停滞することなく市の人口は増え続けていた。市民はみな市長であるわたしに感謝していた。わたしが何を考えているのか知ることもなく。

 ――……。

 耳障りな警告音で、意識がディスプレイに引き戻された。何かをぼんやり考えていた気がするが、それを思い出すことすらできなかった。まあ、どうせその程度のものだったに違いない。画像認証に刻まれた文字くらいに、自分の思考が読み取れなくなっている。
 ポップアップウインドウのタイトルバーには、《公害による健康被害》と記されていた。ウインドウには、いかにも海外のものといった感じの、毒々しいデザインの中年女性が青白い顔色でマスクを着けているイラストが添えられている。彼女がいうには、《市長! この事態は早急に解決されなくてはいけません! 市民は自分と家族の健康を害する黒く汚れた空気から逃れようと試みています。》ということらしい。
 公害に対する対策としては、公園や緑地を配置することで、ゴミ処理場や工業地帯から発生する有害物質を分解する、というものがあげられる。実際それまでそういった対策を施していたのだが、効果ははかばかしくないようだ。……仕方がない、もっと抜本的な対策をとらなくてはいけない。
 まず、セーブを行ってアプリケーションを終了させる。それから、実行ファイルと同じフォルダにあるセーブデータをあるフリーソフトに読み込ませる。セーブデータはもちろん暗号化されているが、このメーカーはすべて同じ形式を採用しているので、はるか昔に解析されている。数秒後には、一般的なテキストエディタで読み込むことができる文字コードに変換されたファイルが保存されていた。それを開くと、意味不明な文字列が羅列されているが、これには一定のパターンがあり、それを把握していれば自由にセーブデータを改造することができる。公害を示すパラメータを検索し、その値を《無効》を示すものに設定した。それを再び変換すると、読み込み可能なセーブデータが問題の箇所のみ書き換えられた状態で保存される。それをもともと保存されたものに上書きした。
 そして再びゲームを起動し、セーブデータを読み込む。うっすらと都市全体にかかっていた灰色の靄が霧散していた。これでもう二度と、市民が公害に悩まされることはないだろう。



 その隠しパラメータに気付いたのは、放射能汚染を無効にしようとしたときのことだった。間違った文字列で検索を行ってしまい、目的のところとは違う行にたどり着いてしまったわたしは、ふと違和感を覚えた。暗号化されたデータの群れは、とても理解しようのないものであったにもかかわらず、《ここ》には何かがあると感じたのだ。そしてそれはすぐ、試さなくてはいけない、という焦りに変わった。
 もちろん、下手をすると二度とプレイできない状況になりかねない。《その》パラメータを別のファイルにメモしてから、新しいセーブデータを作り、ある程度ゲームを進める。そしてそのセーブデータを、例の手順で書き換える。それまで無効になっていた《その》パラメータは、enable、有効になった。
 そしてふたたびゲームを起動するときわたしは、何を期待していたのか、今となってはあいまいだ。実のところ単調に感じ始めていたゲームへの新たな刺激、あるいは……。かたちのないものへの渇望がわたしを突き動かしていた。隠しパラメータの存在に気付いてから、パソコンの前を離れることなく二度、朝を迎えていた。
 立ち上がったゲーム画面には、一見何の変化もないように見えた。これまでの人生においても、何度も感じてきたようなおなじみの軽い失望を覚えながら惰性でしばらくゲームを進めていると、ふと、画面の右下にそれまで見たことのないアイコンが出現していることに気付く。パラメータを有効にすることで、このアイコンが表示されるになった、ということらしい。アイコンは三角形を組み合わせた抽象的な図柄をしており、そこから意味を抽出することはできなかった。
 軽い気持ちで、アイコンをクリックしていた。それまでの過程に存在していた、儀式めいた厳粛さは、失望を通過するなかで消えうせていた。実際、クリックしてもしばらくは何の変化もない。ふたたび失望のもとへ帰ろうとしたとき、瞬間のうちに、すべてが変わっていた。
 まずカーソルが違う。それまでの、指を象ったものではなく、円形のなかに十字が刻まれている――そう、照準のようなものに変化していた。すでに予感は、形にになってわたしのなかにあった。それを確かめるためには、右手の人差し指をわずかに動かすだけでよかった。だが、先ほどまで指が攣るほどに動かしていた指は、ひどく重たいものになっていた。どれほど力を込めても微動だにしない。どういう仕組みの結果としてそうなるのか理解できなかった。何ものかが身体の内奥からその動きをせき止めているとしか思えなかった。ただ、ここまできて引き返す道理などないのもまた確かだった。待ち続けた。
 そしてそれは、予想通りに突然訪れた。意志が後押ししたのか、あるいは何らかの身体の反応でしかなかったのか、とにかく人差し指はわずかに動き、マウスは軽い音を立てる。そしてそれと同時に、ビル群が爆発した、画面の中で。ホイールを使って画面を拡大する。高層ビルから落下する焼け爛れた人間の姿がはっきりとわかった。そこにさらに照準を合わせてクリックする。身体が分断され、散り散りになるのが見えた。
 すでに街は大混乱に陥り、自動車は衝突事故を起こし、列車は横転していた。あらゆる場所でクリックを繰り返した。それなりの時間をかけて作り上げた街が、あまりにも軽い音とともに崩れ去り、醜い本性を晒している。それは鉄骨であり、内臓であり、コンクリートの塊だった。手のなかにある小さな器械は、あらゆるものの内部を暴き出すトリガーになっていた。指が痺れるまでクリックを繰り返した。右上に表示されていた人口の数は瞬く間に減少していく。正直にいうならば、性的な快楽のただなかにあった。特に、少女をただの肉塊にしていく時などは。
 少しは抑えよう、とすら思わなかった。気がつけば、生きとし生けるものが滅びた世界をただ壊していた。痛みが走る指をマウスから離したとき、はじめて、体温が少しずつ下がっていった。そして、これが仮の世界だったことを思い出す。ハードディスクのなかには、これよりはるかに長い時間をかけて作り上げた、虚構の世界が存在する。それを破壊し、意味のないテクスチャの塊に追い込むときは、いったいどれほどのものがわたしを襲うのだろうか。
 ……作り上げなければいけない。破壊するために。



《市民の声》というメニューを選ぶと、そこには市長に向けた賛辞の言葉が連なっている。そのなかに紛れ込んだ小さな不満、たとえば犯罪が増えてきた、あるいは学校は足りない、そういったものを即座に解決していく。また評価が上がる。そうしながら新たな地区を建設することで、はじめは果てしなく広大なように思えた地図の余白は、少しずつ狭まっていく。すべてが埋まり、そしてそのすべてが完璧な発展を遂げたとき、それは始まる。街の人口はすでに300万人に迫ろうとしていた。理論的な限界も近い。
 今日も人々は健康的、文化的な生活を満喫していた。四角形のマップ、その外には何も存在しない、閉ざされた平和な世界。しかしそれは、破滅のために準備されている平穏にすぎない。わたしだけがそれを知っている。そのようなことを考えているあいだにも、終わりの始まり、わたしによってトリガーが引かれる瞬間は近づいていく。それは……きっと、明日にも。