「八本脚の蝶」を付箋を付けながら読んでいる。付箋を付けながら本を読むことなんてはじめてではないだろうか、と思うのだが。はたして僕がしていくこと、感じることは本当にそうしたいと思ってしていることなのか? すべては期待された/期待されるよう期待しているイメージに自分を自縛していくためではないのか?

ところで、「八本脚の蝶」にはこのような日記がある。サークルに入って、ちょうど「空飛ぶ馬」で読書会をやったとき、思いのほか不評で驚いた記憶があるのだが、つまりこういうことなのかもしれない、と思った。「本を読む女性」には(女性に限らないのかもしれないけど)それこそ「私」のような純粋性――病弱で、メガネで、木陰で本を読んでいるような、そういうステロライプ――が付きまとうが、実際、読書という趣味はそれじたいにある種のエロティシズムを内包しているのはではないだろうか。卑俗なたとえを持ち出すなら、その辺にある面白い本を十冊手にとって読んで、性的な描写にひとつも出会わないなんてことは、児童書でも選ばない限り、どのようなジャンルにおいてもありえないはずだ。

(追記)もちろん北村薫ともあろうひとがこのことに気づいていないわけがないわけで、それは「夜の蝉」のあるシーンなどに強く現れていると思う。

まだ僕はこの物語を半分も読んでいない。まだ彼女は死を想いこそすれ、死に魅かれているようには思えない。僕はこの物語の結末を知っている。それは悲しいことなのかもしれない。