bk1怪談大賞ボツネタ三本。

椅子の中の男



 ある老女流作家のお宅に取材で伺ったときのことである。特異な作風で注目された彼女は、外務省書記官であった夫がこの世を去った今も執筆活動を続け、文壇に独自の地位を築いていた。
 通り一遍の質問が一段落したところで、私はかつて耳にしたある噂の真偽を質問することにした。彼女の作品のなかで、私がもっとも敬愛する代表作『椅子の中の男』が書かれるきっかけについてである。
「あの――」
 インタビューの場所として通された書斎ですっかり白くなった髪を撫でる彼女は、まるで幼女のようであったことを憶えている。
「『椅子の中の男』が読者からの手紙をもとに書かれたというのは事実なのでしょうか?」
 不躾な質問が部屋を彷徨い、ゆっくりと融けて消えた。私は叱責すら覚悟したが、予想に反して彼女は微笑を浮かべて答えた。
「ええ、事実です。当時私のもとには多くの手紙が届いていたのですが、それはそのうちのひとつでした。一読した私は、もちろん恐怖もありましたけれど、何かぞくぞくするものを感じたのを憶えています。――そうです、手紙には結末の部分がありませんでした」
 自らの座る椅子に触れ、女流作家は続けた。
「これが、私がそのとき座っていた椅子です。ほら、ここに修繕した跡があるでしょう? 包丁でここを破ったら、いたんです、男が。まず、――凄い臭いがしました。それから、叫び声が聞こえました」
《ある目的の為に大きな袋を備え付けたり》……『椅子の中の男』の一節を私は思い出した。
「椅子を破るとき、包丁は男の身体を切り裂きました。それがもとで彼は出血死してしまったのです。私は途方に暮れました。そのとき、私に天啓が降りたのです。椅子の中に男がいるのだから、これはいうなれば《人間椅子》とでも呼ぶべきものだ。そして、もうひとつのものをその言葉は意味しうる。人間で出来た椅子を――」
 彼女の細い皺だらけの指は、私の座っている椅子を差していた。

けものたち



 砂場に獣の屍が落ちていた。ぼくたちは砂の城を作るのをやめて、それで遊ぶことにした。缶蹴り、野球、鬼ごっこ。もう飽き飽きしていた遊びが、獣の屍を使うだけでこんなに面白くなるなんて知らなかった。夕暮れの公園で僕たちは、知らないことはまだいっぱいあるんだと知って、それを教えてくれなかった大人たちを憎んだ。
 夕食の時間が近付いて、そろそろ帰らなくちゃいけなくなったとき、僕は明日もこれで遊ぼうよと云った。みんなもちろんうなずいてくれたけれど、じゃあ誰が持って帰るのと誰かが呟いた。僕が何も考えずに手をあげると、他にも手をあげたやつがいたからじゃんけんをした。僕は爆弾を出して勝つ。明日からみんな爆弾を使うようになるだろう。
 変だと思ったのは家に帰ってからだ。とりあえずおもちゃ箱に入れておいたのだけど、夕飯のときにお母さんが何か変な臭いがすると云ったのだ。……そうだ、死んだものは腐るんだ。なんでそのことを忘れてしまっていたのだろう。放っておいたポテトサラダのように、あの獣の屍も、崩れ、黒ずんで、ひどい臭いを発するのだろう。
 勝手に臭いものを持って帰ってきたことがわかったら怒られる。それだけは厭だ、怒られるのだけは。おもちゃ箱のある部屋へと走った。もう、僕にもその強い臭いが感じられるようになっていた。鼻の奥に突き刺さってくるような、尖った、とても厭な臭いだ。ドアを開けると、そこには四つんばいになった獣がいた。数秒見つめて、僕はやっと、ほんとうのことを理解した。あの尖った悪臭は、死の臭いじゃなくて、生きた獣の発する、生命の臭いだったのだ。僕がまだ何も知らないから、生と死の区別もつかなかっただけだ。見つめている間に、大きく口を開けた獣は、もう僕の眼の前に迫っていた。
 けど、次の日からもみんなは獣と遊んでいるらしい。




 ……目覚めると、右手の中指の爪先が夜になってた。なにしろ深い紺色に、細かく光の点が打たれているんのだから、夜以外の何ものでもないじゃない。こころなしかひんやりしているような気がして、それが少し気持ちよくもあって、少し風変わりなマニキュアと思えばいいのかなって、その朝は思ってた。
 明らかな異常に気が付いたのはその次の日の朝だったわ。起きた瞬間に、中指全体がきいんと――ひんやりと、どころじゃなくて――冷たくなってて。あわてて右手を見ると、中指は付け根まで夜になってた。わたしの身体は夜を吸い込むようになってしまったらしいって、そのときやっと気付いた。
 これじゃ身体を夜に支配されちゃう、たしかに夜は好きだけど、夜になりたいなんて思ってない。とりあえず病院に行ってみたけれど、医者も首を捻るばかりで、処方されたのは見たことがないほど黄色いカプセルだけ。しかも、これを一時間おきに三粒飲めって。
 さすがに気味が悪くてカプセルに手をつけられなくて、止血をするときのように包帯をぐるぐると手首に巻いて寝たけど、無駄だったわ。翌朝には右腕全体が夜になってた。もうだめだと観念して、それからは一時間おきに三粒、カプセルを忘れず口にするようにした。とても苦かったけれど、確かにそれ以上身体が夜になることはなかったわ。ただし、すでに夜になった右腕が元に戻ることはなかったけれど。
 だから、わたしは短い袖の服を着ることはできないし、あなたを抱きしめることもできない。カプセルを飲んでいないあなたは、わたしの右腕に触れたら夜が乗り移ってしまうから。……でも、それでもどうしてもっていうなら、ここにカプセルは用意してあるけれど。これからずっと、一時間おきに三粒、これを飲み続けていられること――できる?