極論:創作としての批評

id:Erlkonig:20061218:1166438857について。そのつもりはなかったが、思いの外反論っぽくなった――がやはり反論のつもりではない。

 前置きとして――僕はこれから書くことを完全に信じきっているわけではない。ある意味でいえば、これはたんに思考を弄んでいるだけだ。実を言えば、これから書く文章で何がいいたいかといえば、批評と呼ばれるものはすべて、その程度のものではないか、そしてそれゆえに重要なのではないか、ということだ。

 小説に限らず創作を享受する目的はなんだろうか、と考えたときに、当然その答えはひとつではないのだが、〈楽しむ〉ことと同じくらいに、というよりは完全に別なベクトルで僕にとって重要なものとして、最初から極端なことをいうようだが、〈世界〉を変える、ということではないかと思う。もちろんわざわざ山括弧で囲んだからにはそのままの意味ではなくて、ここでいう〈世界〉はその個々人においての「世界」だ。だからむしろセカイ系のセカイ、といったほうが正しいのかもしれない。極端に矮小化した意味で語られる〈世界〉を僕の感覚になじむように書き換えるなら、〈現実〉っていう感じだ。その個人に見えるもの。力づくでその人間の〈現実〉を捻じ切るような表現。
 そもそもまあこんな風に書いてはみたがはたして僕の〈世界〉が創作によって変わったのか、と言われると正直いって言葉に詰まってしまう。僕にとって重要な創作というのはいくつもあるけど、果たしてそれ以前とそれ以後で僕という人間がどれだけ変わったのかというとかなり怪しい。何を読んでも僕という人間はしょうもないままだ。しかしまあ〈世界〉ということで、すべては主観にゆだねられるのだから、まあ、それでいいのかもしれない。それに、いくらその創作に力があったとしても、そうやすやすと〈世界〉が変わるものでもない。変わりすぎても困る。〈世界〉を変えることができる創作というのはすばらしいのだけど、かといってあらゆる人間の〈世界〉を一気に変えられてはそれはそれで問題だ(それくらいの危険は創作というものにあらかじめ備わっていると思うけど)。だから大抵の場合、〈世界〉ではなく、それに属する何かを変えていくのだと思う。
 もうちょっと具体的に書くと、ある創作を受け取ったことで、あるものに対する見方が変わったとしたら、それはもう〈世界〉が変わったということと同義だ。たとえば主人公の恋人が車に轢かれる小説を読んで、主人公の哀しみと自分の感情を同期させ、自動車への憎しみを感じたとしたら、読者の〈世界〉を構成する要素としての〈自動車〉はその時点で、便利な道具から憎むべきものへと変わる。もちろんたいていの場合、小説のキャラクタが轢死したくらいで読者は自動車を憎んだりはしない。ところが優れた創作である場合、その筆力だか、ディティールだか、なんだかによって読者は自動車への憎しみを感じうる。たとえのちにそれを忘れたとしても、やはりその時点で〈世界〉の一部としての〈自動車〉は変わっている。
 まあだから大袈裟な表現をしたけれども、ようは小説を読んだり映画を観たりして、何か心に残ったとか、あるいは何々がこうだったというように感じた時点で、〈世界〉の一部は変わってしまっている。別にそれは好き嫌いに換言されるものではなくて、〈なんだか知らないけど感動した〉とか、〈なんだか知らないけどショックだ〉とか、それでもいい。別に〈世界〉のどの部分が書き換わったかなど知る必要はないのだから。そしておそらく、読者に何が変わったかを悟らせない表現こそが真に危険であり、優れた創作に繋がるのだと思う。ミステリなんて作品内でそれを完結させてしまうんだから、考えてみればすごい形式なのだけど。

 ここまでは前置きだ。

 そしていうまでもなく、批評もまたそういうものだ。
 たとえば小説に対する批評であれば、〈世界〉の一部としての小説、アニメに対するものであれば〈世界〉の一部としてのアニメ、その他社会だろうが映画だろうがスポーツだろうが自動車だろうが画鋲であろうが、何かを批評するという行為は〈世界〉の一部としての何かを変えようとする営みではないかと思う。創作よりももっと直接的に。
 だから、まー、あれなんですわ。なんか急に面倒くさくなってきた。なんだ〈世界〉って。電波か。
 批評なんて全部嘘なんですわ。小説と一緒で。
 創作について創作者が信じる〈感覚〉が正解であるっていうのは、誰も保証してくれないし、される必要もない。本人だけわかっていればいい。〈真実〉なんていうのは、どこにもありません。画鋲にだってない、そんなものは。あって〈事実〉。
 だから批評家は〈的に当てる〉必要なんていうのははなからなくて、最初からその批評の読者のほうを見る。いかに力のある批評という〈創作〉でその読者の〈世界〉の一部であるその作品を変えるか、というのが目的なのではないかと思う。それができる批評が優れた批評だ。たとえ創作者のお墨付きがあったとしても、つまらない批評はつまらない。自らの〈世界〉を補強する表現はここちよいけれど、それだけだ。だから実際のところ、妄想は結構なのですよ、逆に実体験があればあるだけ、自らの〈世界〉に浸かってしまう危険があるかもしれない。実作の経験がなくてもすばらしい批評をする批評家もいるわけだし。借り物の言葉の自称〈批評〉というのは、そのまんま、借り物の言葉だけの自称〈小説〉なりなんなりと同じようなものと考えておけばいいと思う。
 ただねー、批評の厄介なところは、相手がいることだと思う。これに関しても詭弁を弄することはできるけど。別に個人を攻撃するために書かれた小説だってあるわけだし、とか。これに関しては相手のことを考えるか、もしくは責任を持ちつつ相手のことを考えないふりをするかのどちらかだと思う。ガチで考えないのは問題があるけど、まあそれは個別のケースなのでどうにかしてください。ああ、あと、そもそもたとえば小説だって、それまでに書かれた小説とかの表現が在る以上、それらについての批評になりうるというか、ならざるをえないと思う。まあだからほんとう、直接的かどうかの問題でしかないとは思う。直喩か暗喩かくらいの。結論としては、批評も一種の創作であるのだから、あえて創作と批評を対立する必要はないし、あえていうならライバルか仲間かそういうものなので、パクリにならない程度に利用しあうことはマイナスではない、というくらいに。