術花

 僕の家の近くにある植物園に行きたいと、最初に彼女が云ったときは耳を疑ったことを素直に告白しておきます。そんなことに興味がある娘だとは思っていなかったので。内科の医学生であるらしく、会うときはいつも今日はどんな胃を摘出したとか、どんな血を採血したとか、どんな十二指腸を蹂躙したとか、どんな脾臓を攪拌したとか、そんな話しかしなかったのです。そんな話の数々に僕は確かにうんざりしていました。けれど、なんだかそういう話をするときの彼女の瞳には偏執的な輝きが宿っていて、どうも昔からそうなんですけど、僕はそういうものに弱いんですよ。わかってくれますでしょうか……ゴシック趣味、とも違うのだけど、狂気まではいかない、けどその断片のようなものを見ると、どうしてもひきつけられてしまうのですよ、昔から。
 で、まあそんなわけですから、彼女が次のデートは植物園がいいと云い出したときにはびっくりしたわけですよ。彼女も内臓ばかりじゃなくて花とか、なんかああいう綺麗なものが好きなんだと思うと安心したような、がっかりしたような、変な気分になったのを覚えています。
 当日、待ち合わせ場所から植物園に向かうまでの彼女は、まだ普通でした。彼女の様子がおかしくなり始めたのは植物園に入ってからでした。眼をせわしなくきょろきょろさせ、何ごとかを呟き続けています。顔からはただでさえ薄い色素が見る間に失われていき、唇は震えていました。体調が悪いのだろうか、と思いましたが、どうもそれとも違う違和感を覚えて、僕は戸惑っていました。声を掛けても無視されますし。
 彼女は歩き続け、中心部へとたどり着きました。壮観でした。僕自身、植物などにはあまり興味を持てない性質でしたが、さすがにこれには圧倒されました。一面に、赤、黄、緑と原色が撒き散らされていました。キャンバス、という陳腐な例えが脳裏を過ぎりました。そんな風に見入っていたものだから、横で彼女が顔面を押さえ、叫び出したことに気付くのも一瞬遅れたのです。
 といっても実際に叫んだのは一瞬で、すぐにそれは掠れた、音声を伴わないものに変わったので、周りの注目は浴びずに済みました。僕は驚いて、崩れ落ちた彼女の身体を支えようと手を伸ばしましたが、振り払われました。すぐに、手術、と呟いています。手術? 場にそぐわない言葉に僕はどうしていいかわからなくなりまして、動きが止まりました。次の瞬間、彼女はその辺にあった薔薇に手を伸ばし、折りました。あ、と僕は思いました。確か植物園の植物は弁償の対象になるはずです。どうしようと思いましたが、すぐにそれどころではなくなりました。彼女は爪で薔薇の棘を剥ぎ取ろうとしていたのです。腫瘍、と小さく、掠れた声で呟いていました。
「腫瘍を、切除しなきゃ、こんなにひどくなってかわいそうに……あの娘と同じになっちゃう、このままじゃ……」
 そんなことを、ところどころ聞こえなくなるくらいの早口で幾度も繰り返していました。彼女の指先には棘でできた傷が次々に出来、いくつもの赤い流れが白い肌を汚していました。紅い薔薇――血の色と同じでした。瞳にはかつて僕が見た偏執的な輝きではなく、もはや覆い隠せそうにない狂気が充ちていました。どうして、どうして取れないの、この腫瘍。そんな言葉を半開きの唇から洩らし、涙と唾液を垂れ流しながら、彼女は職員が駆け寄ってくるまでずっと、指を棘に擦り付けていました。
 あ……そうそう、棘は一本取れそうになっていましたよ。
『惜しかったですね』
 ええ。

ちょっとまえによあけさんから薦められた「MOON」をはじめたんですが、面白いですね。

MOON

MOON

高橋源一郎「一億三千万人のための小説教室」を読んだ。なんだか自分が酷く手遅れになってしまったような感覚に陥る。そういうことじゃないんだろうけど。ちなみに乱丁してた。

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

軽いエッセイが読みたくなったので、リリー・フランキー「増量・誰も知らない名言集」を読んだ。

増量・誰も知らない名言集 (幻冬舎文庫)

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