僕は「関係性オタク」という言葉を、点(=キャラ)そのものではなく点と点を結ぶ線(=関係性)に萌えるということだと解釈していたわけで。そうなると。

私はBLが好きなのではありません。関係性オタク((c)三浦しをん)なのですよ。

というのはふつうにわからない。関係ない気がする。この意味での関係性オタクというのは、なんというか、「動物化」(なつかしい言葉)のアンチテーゼとして使われうる言葉ではないのかなあ。猫耳が出てくれば萌えるとか、メイドが出てくれば萌えるとか、そういったある意味での安直さを否定する言葉なんじゃねーかなー、とは思う。でもあずまんはその「動物化」という現象を、そのとき現れたものとして記したんだから、別に「関係性オタク」っていちいち明言することじゃない気もする。ふつうのことじゃん。関係性に興味のない人なんてそんなにいません。

攻撃的に読める文章だけど、別にそんなことはないですよ(フォロー)。

で、BLとか百合とかと「関係性オタク」の関係だけど(ちなみにやおいはBLの蔑称/自虐的な名称と解釈することにした)、つまり男女ではなく、同性愛的な恋愛関係というのは、より「関係性」を浮き彫りにしやすい、ということなんじゃないなあ。BLとか百合を愛好する理由がひとつだとは思わないし、それは乱暴だけど。男女の恋愛関係はつまりもう、純粋(純愛と呼ばれるものもそうだし、純粋な性的関係にしてもそうだと思う)ではありえないと。本当かよ。

で、そんなこととは関係なく「月光の囁き」が読みたいんだけど、文庫版が見事に品切れなっとるがな。資料用にほしい「杖と翼」も売ってないし、どないなっとるんや(似非)。

西澤保彦「解体諸因」を読んだ。

解体諸因 (講談社文庫)

解体諸因 (講談社文庫)

どん詰まりであることをおとなしく認めることにして、中断していた保坂和志「小説の自由」を読んだ。……ちょっと考えがまとまらない。少し前に「冲方式ストーリー創作塾」を読んだときに「小説ってもシステマティックに捉えすぎじゃね?」と思ったものだが、逆にここまで針が逆に振れるとそれはそれで戸惑いを覚えてしまう。

小説の自由

小説の自由