なんでSFに詳しくないのにワールドコンに行ったか、という話かもしれない

以下は戯言。
というわけで横浜まで行って誰かに電話しながらエスカレータで上っていくテッド・チャンを観察したりしていたわけですが、ここ数ヶ月のエントリを見ればあきらかなように僕はまったくSFには詳しくなく、具体的にいえばハヤカワ文庫SFと創元SF文庫を足して片手で足りるか足りないかくらいしか読んでない。じっさい飲み会ではあの醜態なわけで(どうもすいませんでした)、いったいなんで来たのかといわれれば、まあ生きているうちに次があるかどうかわからないこととか、暇だったからだとか、お祭り気分を味わいたかったからだとかいろいろあるのだけど、結局背中を押したのは、ミステリというジャンルの現状に対して抱き始めていたひどい閉塞感、そして今のミステリにないものがSFにはあるのではないか、という期待感だったような気がする。
これは急いで書いておきたいが、質の問題ではない。質でいえば、最近出版されているミステリのレベルはかなり高いと思う。それこそ「密室キングダム」だって、本格ミステリとしての完成度にはケチをつけるべくもない。だが、僕という読者は、それだけではダメだったらしい、ということに遅まきながら気づかされたような気がしている。
ミステリ、特に本格ミステリというジャンルが《現在》からものすごい速度で取り残されているような感覚に、ここ何ヶ月か新刊で読み続けるなかで、いや、はっきりいえば僕が粘着し続けている「密室キングダム」という作品を読んでから捉われていた、ということだ。


どうも僕は読書をするなかで、読む作品に対して、《現在》を求めているのではないか、と感じ始めている。もちろんそればかりを求めているのではない。だが、僕のこれまでの短い読書遍歴を振り返ってみるに、特別な存在であった作家――上遠野浩平森博嗣佐藤友哉――を思い返してみると、やはり僕はそこに、「たった今」、自分が感じている《現在》に内在する何か、が物語にあるかのような感覚(あるいは錯覚)を見ていたのだと思う*1
こんなことを書いても笑われるだけのような気がするんでアレなのだが、とにかく僕は森博嗣から本格に入った。これはもう事実だ。それで僕は本格ミステリという型で語られる物語のなかに《現在》を見て、本格ミステリを少しずつ読むようになっていった。まああと、前述したように別にそれだけを求めてるわけでもないから、謎が解けるのは楽しいしね。
だから本格ミステリなんだから古臭いのはあたりまえだろうというのは、僕の場合は該当しない。本当の意味で古臭いが読みたければ古典を読めばいいのであり、古臭い枠組みで「今」書くことによって、そこになんらかの《現在》が生まれうると思ってた、わけではないが、まあオーバーに当時の感覚を記述しようとすればそんなところではないだろうか。実際、「人間が書けてない」とか言われれば「いやこれが現代の人間なんだ」とか言ってたわけで。
だから「密室キングダム」にいったい俺はなぜこんなに腹が立つのかといえば、そこにはある種、俺にとっての「裏切り」があったからなんだと思う。あれだけの数の密室を築いて、あれだけの謎を解き明かしながら、最終章までいってやれ昭和の犯罪が平成の犯罪がみたいなワイドショー的二分論をなぜ書かなければいけないというのか。そんなもんはわざわざ本格ミステリで書く必要などない*2チラシの裏でいい。


そのタイミングで「Self-Reference ENGINE」と「虐殺器官」を読んだのはたんなる偶然だが、もう面倒くさいことをすっとばして書くとそこには《現在》があった。ありました。そんな気がした。特に「虐殺器官」。個人的には傑作とは思わないけど、ただそれは半径1クリックからネタを拾ったとかそんな表層的な部分だけかもしれないけど、とにかくあったような気がしたし、軟弱軍人の語りにも意外なくらいすっと入っていくことが出来た。
「密室キングダム」の帯には「本格ミステリーは、時代から逃げない」っていう煽り文が書いてあって、じゃあ俺は、あのしょうもない演説を押し付けることが「時代から逃げない」っていうことになるジャンルっていったい何なんだよ? という違和感を少なくともしばらくは持って本格ミステリを読むことになることは少なくとも明らかだ、だったら読むなといわれればいや実は謎が解けるのが楽しいんで、とかいいながら読むけど。実際そうだから。

*1:もちろん、現代に書かれた小説しか《現在》を描けないわけではない。たとえば「虚無への供物」とか、僕がもっとも好きなミステリ短篇である乱歩の「蟲」なんかには、その辺の現代ミステリなんかよりはるかに《現在》を感じるし

*2:正確に言えば、「昭和の犯罪」の極端な例をそれまでのところで書いているわけだが、そんなのはどうでもいい