レスが遅れたのでエントリで返信

amamach 『ええと、はい。確かにエキセントリックな書きぶりになってしまいましたね。特に『新青年〜』のくだり。そういえば、『幻影城』などもあったわけでした。これはもう不適切ですね。

ただ、『社会派』とされた作品群=紙束、ではありません。ただ一種の例として持ち出しただけです。本格を一辺倒に押しているわけでもなければ、社会派を押し出しているわけでもありません。どうにもそう取れる作品はあります(新本格にももちろんそういった作品はあります)。
しかしどうにもこの時代の一側面としてこういった傾向はあったように思うのです。
自分の意図としては、『創造性に気を払わない作品が増えた=冬の時代?』というのがメインとして書いたつもりでしたので(そこで『だれもがポオを愛していた』を出したのは偶然です、『大誘拐』でも『飢餓海峡』でも構わないです)、社会派を紙束同然、などというつもりはありません。それはこっちの言葉足らずによるものです。

創作性を押し出さない作品、というのは実はかなり怖い状態であると思います。そういった――ある種、ジャンルへの『閉じこもり』があらゆる場所で最近は起こっている気がします。新青年時代を引き合いに出したのも本格派、社会派というわけではなく、実は日本の小説の中で、一番混沌としていて、面白い時代だったのでは? というところにありました。SF、ホラー、ミステリ、ポルノグラフィ、自然主義モダニズムなどがミクスチャーされて、異形の作品が数多く出現しているように思います。
戦後からの作品が、どうもパワーダウンしてしまったように感じざるを得ない(個人的に)のは、『分化』してしまったからじゃないだろうか、と思っています。自分としてはジャンルの囲いの中でしか表現できないものもあるのは確かだと思いますが、今の小説界にもっともっと必要なのは、その垣根を踏み越えていく作品の存在だと思います。

と、いうことを思ってそのコメントを書いたのでした。それがエキセントリックな書きぶりになってしまったことは、まことに申し訳ないです。』

いえ、こちらこそ配慮の足りない書き方で申し訳ありませんでした。基本的にはこちらの認識ミスということだと思います。ですが、このコメントを通じて新たに判明した雨街さんの考えに対し、思うところがないわけではありません。
社会派の全盛期であった1960年代とは、27日のエントリで引用したテキストにあるように、社会派という概念によって「作品的にずいぶんと多彩になった」「日本ミステリーの黄金時代」であったようです。これは、雨街さんのいう「ミクスチャー」による「混沌としていて、面白い時代」に比較的近い状態にあったのではないかと僕は思います。必ずしも言い切れはしませんが、近代日本的怪奇色の強い影響下にあった探偵小説に、社会的リアリズムを導入した清張は、雨街さんの想定とは異なる位相においてではあるかもしれませんが、「ミクスチャー」を行っていたのではないでしょうか(そしてそれは創造性と呼びうるものではないでしょうか)。
ですが、29日のエントリで触れたように、日本ミステリはその後「ミステリーとしての特殊性を薄」めてゆき、ブームの終焉を迎えます。これはミクスチャーを繰り返した結果、芯にあるものが奪われた結果と考えられます。
「今の小説界にもっともっと必要なのは、その垣根を踏み越えていく作品の存在」と雨街さんはおっしゃっていますが、個人的な感覚でいえば、1990年代の終わりから、2000年代に始まりにかけて、そのような作品が多く書かれたと思いますし、また時にそれはミステリー・ブームというラベリングをもたらしもしました。今ミステリに『閉じこもり』が起きているとすれば、それはその反動に近いものと考えられるのではないでしょうか。
ただ、今年新刊のミステリをある程度読んでいる立場として発言するならば、決して作品の質が落ちているわけではないと思います。確かに爆発的な力を持った大傑作はありませんが、何かが終わりつつあるという感覚を背景にした、それぞれの作家によるそれぞれの「問い直し」としての作品が多く生まれているように思います。もっともそれが顕著である作品として、ここではこの作品をあげるにとどめておきますが(決して完成度においては優れていないこの作品を個人的に評価するのは、こういう意味においてです)。