清涼院流水/成功学キャラ教授

まず前提として。おれは別に成功したくてこの本を読んだのではなく、清涼院流水の作品を読みたくて読んだのであり、その意味でおれは期待された読者ではない。
そのうえでさらに誤解を恐れずにいうなら、おれはこの作品にある意味において失望した。だがその反面、この作品は清涼院流水という書き手がいったい何をしようとしているのか、ということを考えるときに非常に重要な意味を持つと思う。
いずれなんらかのまとまった文章にしたいと思っているが、清涼院流水という書き手を語るにおいて、重要なキーワードは「救済」と「選別」ではないだろうか。おそらく清涼院流水は、自らの作品で読者を「救う」ことができると本気で信じている、ただひとりの書き手だ。それは大変結構なことだが、困るのは、そのために彼が用いてきた手段が「選別」であることだ。はっきりとはでさなかったが、なんとなくおれはその臭いを、たとえば「カーニバル」に感じていたように思う。だけどまあ、近作は、すべて読んでた訳じゃないけど、そういう癖が薄れてきているような気がしていたわけだ。だがこの「成功学キャラ教授」は違った。もはや臆することなく選別である。クライマックスらしい第10講を読みながらおれは、「カーニバル」の最後の方、獣人毒者とか云ってたあのあたりのことを思い出していた。つまりなんだ、あのころから実は何も変わってなかったんだなあという脱力感である。むろんそのへんが好きで読んでるひとにはなんの問題もないわけだが、まあ、おれが好きなのはそういうところじゃなかったなあというだけの話である。

成功学キャラ教授 4000万円トクする話 (講談社BOX)

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