遅い返事

整理はしようと思ったんですができませんでした。すいません。とりあえず僕はできるだけ矛盾しないようにその場その場の返事を考えるだけで精一杯です。

Erlkonig 『それがまったく自分に無関係なら放っておくことも出来るんですけど、ファウスト合宿の対談の席とかで東浩紀さんが「正しいことを言う人」として振舞ってたのとかを見てると、作家が批評家の言いなりになってしまうという嫌ーな構図が見えてしまうんですけど気のせいでしょうか。「地の文に嘘があってはならない」とかも一種の権威だと思います』

これもやはり、批評を一種の創作をとらえることである程度の答えを得られるのではないでしょうか。
その合宿の対談を読んでいないので正確な判断はできませんが、それはたんなるポーズとしてとらえるのが結局のところ正しいと僕は思います。たとえば作家でも、ランキング投票で自分の作品に投票するひともいます。東が過度に自己を高く装っているとしても、それはただそうふるまっているというだけの話であって、東の理論そのものへの説得力に影響するものではありません。
作家がある創作に入れ込むことも当然あるでしょうし、それを前提とすることもあるでしょう。しかしだからといってその創作を準じたものばかりばかりを書いていては、それを超えることは難しいでしょう。作家が評論家のいいなりになり、その枠組みのなかでしか創作できないとしたら、突き放したような言い方になりますが、それはその作家がそれまでの作家であったというだけの話ではないかと僕は思います。創作が、他者に影響を与えるという意味で危険なものであるように、批評もまた危険です。「作家が批評家のいいなりになる」とい危惧は、あらかじめ批評という営為に含まれた危険であると思います。創作に過度によりかかった批評に価値がないように、批評に過度に寄りかかった創作に価値はありません。それだけの話だと僕は思います。創作も批評も、もはやすでにあったものの影響から逃れ得ないのですから、せめてそれに抗していく、あるは逆に利用していく力が必要なのではないでしょうか。
「地の文に嘘があってはならない」は批評というよりは、やはりただのルールに近いものではないかと思います。しかも誰しもがこのルールを守ってきたわけではなく、いってしまえば守りたいひとだけ守ってきたのですから(一人称を使えばいくらでも嘘がつけるのですから)、特に権威として認識する必要はないのではないかと思います。