解題、あるいはハイパーテキストプレイでない理由

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誤字が多すぎるからではない。

 したがって、ハイパーテキストプレイを行ううえで求められているのは、以下の二点のみです。
・読者に対し丁寧で分かりやすい表現など余計なことは考えず、自分に忠実に書くこと。
・始める前に構想などは立てず、そのときに思いついた言葉を、そのままに書くこと。

*1
昨日貼り付けた小説は二番目の条件に違反している。なぜなら、小説の最初の一文、「私は机を蹴った」のみを、事前の数分間で決めて、そこからテキストプレイをはじめたからだ。ゆえに、あの小説はハイパーテキストプレイではなく、たんにテキストプレイを用いて書いた小説でしかない。
これを書いた日曜日の夜、つまり文学フリマで「文学2.0」を買い帰ったその夜、の時点において「ハイパテキストプレイ」について現在公式サイトにあるような明快な説明はなされておらず、少なくとも僕にとって「文学2.0」の秋山さんの評論は胡乱に思えたし、遠野さんの創作は、少なくとも小説であるように思えない点において、通常のテキストプレイと異なるように思えなかった。ゆえに手探りながら自分でルールを決め、僕はあの小説を書いたわけだが、果たして、明快に定義されたあとであったとしたら、僕は上記引用のとおりハイパーテキストプレイを試みただろうか? 分岐点の向こう側のことを予想することに意味はないが、こちら側の僕はやや懐疑的だ。なぜなら小説、少なくとも僕の信じる小説は、必ずしもテキストプレイの方法論と噛み合わないと感じるからだ。それはテキストプレイで小説を書いた今、より強い感覚として僕に残っている。

  • 小説とエッセイは違う

かんたんにいうと、テキストプレイというのは、書き手の「現在」の「思考」と「身体感覚」を生々しくあぶりだす(秋山さんの表現を使えば「自動的にする」)手法ではないかと思う。しかし、それが有効な意味を持つのはエッセイ、小説ではない文章の時だけではないか。

 けっして、絶対に言語化できない私たちの感情を言語化すること。
 それは、私たちが自動的な存在になってしまうこと。それは言葉を、理性を捨てること。
 理性を手放し、自由な存在となった私たちならば、言語化できないはずの感情を言語化することも可能である。

しかし、理性がなければ小説は書けない。僕はテキストプレイで小説が書きたかったので、書き手自らの「現在」の「思考」と「身体感覚」を極力押さえつけて*2書くことにした。つまり、思考を小説を書くときのギアに入れて(そのために最初の一文を事前に考える時間を作った)書き、「腕が痛い」だの「何を書いていいかわからない」だのという文章を極力書かず、小説としての「物語」を作り出すことに全力を傾けたのである。結果どうなったか。

通常テキストプレイをしているとき、といっても一度しかないが、思考がどんどん拡散していくのを覚えた。自分の近いところにある思考を書きつくし、遠いところへと手を伸ばしていくような感覚である。翻って今回、僕はどう感じたか。どんどん内向きになり、深いところへともぐっていくような感覚である。それは物語上の舞台に反映されているといっていい。僕は何度も最初に設定した教室から舞台を転換させようとした。しかしそれはかなわず、キーボードをたたこうとするとき脳裏に浮かぶのは教室の風景ばかりだった。深くもぐっていくことで、新たな言葉をつむぐことは決して不可能ではないだろう。僕にはそう思えないが、僕の小説でそれは達成されているのかもしれない。

しかし今も右腕に違和感を覚えるなかで、この相反する小説とテキストプレイという行為を一度に行って得られるものは、少なくとも僕にとっては僕にとってあまり大きくない。だから僕は、画期的な新たな手法が作られない限り、これ以降この方法論を採用することはないだろう。がんばってください(挑発的言辞ではない)。

*1:関係ないけど、FireFoxでずれてる。あと、テキストプレイの出典も明記しておくべきでは

*2:しかし、本文を読めばわかるが、完璧にそれを行うことはできなかった