たとえばあるイベントをめぐって、mixi内で対話しようとするひととmixi外で対話したい人があって、それでなんやかんやあったとする。とこう書けばある人は固有名詞をあげてもわからないし、ある人はこうやって伏せてもすぐにわかる。だからこうやってあいまいに書いていることの意味なんてないわけなのだけど、だったらなぜ伏せて書いているかといえば、それは僕が表明したい距離感の話であって、つまり僕はイベントについての話をしたいんじゃないということだ。おそらく向こう数年は参加することもないだろうし、対話の内容について正直言って詳しく考えたいとも思わない。だから今から書くことはそのことについての言及でもあると同時にそうではなくて、もっと、茫洋とした、あるかどうかもわからない現象についてなのかもしれない。ていうかフィクション。

議論に参加したどのサイトもかなり長いスパンでサイトをやっているのだけど、でも今見るとmixiでの対話を試みたひととそうではないひとの、アンテナ被登録数は最大で10倍以上の開きがある*1。だからこの場合のギャップというのは、読者に対する信頼の差なんじゃないかなと思った。かつて、そして今でも非常に狭いコミュニティにい続けているひとと、でかくなってそこからすでにはみ出た(抜け出したわけではない)ひとの。「愚かな読者」をハンドルネームで判別できた時期はもう過ぎてしまった。そしてもしかしたら匿名の時代ももう終わってしまって、今度は、掲示板やなんやらを荒らす=干渉するのではなく、遠くから、嫌味や批評を向ける記名なんだけどやたらぼんやりした存在による攻撃を警戒しなければいけない時期にさしかかっている、のかもしれない。

いまは、ひとつの更新チェックツールでコミュニティが構築されるわけではない。知名度が高いところも低い人も個々のアンテナで「自分が読んでるところ」という自分だけのコミュニティを構築する。もうみんな知り合いだった、そのコミュニティのなかで「この指止まれ」して「はーい」という感じにはなってなくて、えっと。何の話だっけ? とにかくサイトの読者が多ければ多いほど、そのなかのバカに敏感になるという話、だったのか?

北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」を読んだ。最初は何の話をしてるんだと思ったが、最後まで読んで論理展開には納得がいった。

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

返却期限が明日なので「茶の味」を観ようと思ったが、10分でどうでも良くなってしまう。なんかもう、どうしょうもねーな。いや、オレが。

*1:被登録数という指針はあまり役に立たないけど、まあとりあえず