この世には恐ろしいことが起こりうる。たとえば、トレードペナントの二年目で、29勝110敗1分という結果に終わり、確認したら成本年秀が110試合に登板していた、というような、そんな恐ろしいことが起こりうる。

リアルタイム思考記述。考えたことを書く。

新歓のとき、ふとした拍子で、評論のことが話題にのぼったことがある。その話になったのは、確か女の子二人組だったと思うが、誰だったかは覚えていない。今も残っているか、いないかも、覚えていない。

で、女の子の片方、あるいは両方だったかもしれないが、こんな内容のことを云った。「批評家なんて小説が書けないから嫉妬して作品をけなしてるんでしょう?」

僕は反論を試みたと思う。たとえば野崎六助のことを口に出してみたり、小説と批評というのはお互いを補完してどうこうとか、そんな死んでしまえばいいようなことをわけもわからず口走っていたと思う。

僕がミステリを読み始めた時期と、ネットを巡回するようになった時期というのはほぼ一致していて、ミステリを読んでネットに感想を書くというのはとてもスムーズに展開される行為の流れとして成立していた。

最近は読んだとしか書いていないが、2003年の6月にサイトを始めてからは、はてなに読んだ小説の感想を縷々つづっていたし、また、ミステリサイトの管理人の人たちともつきあいはじめて、まあだから、読んでつまんなかったらつまんない理由を考えてつまんねー、と書く、素人が、という行為は別に何の疑問もなく実行されるのが当然だった。

しかしまあ、それは否定されうるわけだ。

先述した、批評家なんて小説が書けないから嫉妬して作品をけなしてるんでしょう?というイデオロギーのもとを考えると、たぶん、作者が全能であるというテーゼが出現するような気がする。

作者=全能というテーゼから俺が想起させられるのは、森博嗣の日記だ。いつごろだったのか、本でいうとどれだったかは忘れたが、「今まで一度たりとも、自分が予期しなかった感想を書かれたことがない」と書いてあるのを読んだ気がする。

予期しなかった感想を書かれたことがない、ということは、すべて読者は作者=森の掌で踊っている、ということになる。つまり、全能の作者と、その掌の上の読者、という対立項が成立する。

だるくなってきた。

で、その読者という概念に、批評家というものが内包された場合、「批評家が何を云おうと、それはすべて作者の想定の範囲内にあるのだから、作者に何らかの影響を及ぼすことはできない」という結論が出る。

そして、もし批評家がそのことを知っていた場合、そのことを承知しておきながらなお批判するとしたら、それは(当然)自らが小説を書けず、人々に感動を与えることができない、という鬱屈を発散するためにしているのだ、あるいは、そのことを知らなかったとしたら、たんなる馬鹿である、というように展開できる、ような気がする。

ちょっと脇道。森ぱふぇでは批判が禁止されているわけだが、実際ファンサイトでの批判禁止は普通なのだろうか? ファンサイトの、ファンサイトとしてのありかたにもかかわってくる問題なので、一概には云えないだろうが。

実際、森はかなり強くこのテーゼに依存しているっぽい。笠井潔VS覆面座談会のときに笠井側に立ち、「実際に作品を書いている者の言葉は強い*1」と書いたのもそれがあるだろうし。まあそれこそ野崎がどうなるんだという話にもなるが。

戻ってみる。実際、この論理に対抗しようとするなら、どのような道筋から話を進めればいいのだろうか?

とりあえず、この論理を形成する要素を抜き出し、それを否定しうるかどうかを考えてみる。

  1. 作者が全能でないとする
  2. 全能でない読者に批評家が含まれないとする
  3. 批判が作者の想定の範囲内であることは認めるが、その上で、批評が作者に影響を与えることができるとする

竜頭蛇尾の予感。

やはり俺なんぞには思想系*2の真似事は無理だったんだな。

そういっていても始まらないので再開。もう恥さらしだな。まあ俺は生きていること自体が恥さらしだが。

さて、先述した三つの選択肢、あるいはそれ以外に存在しうる俺には見えない選択肢、あるいはそれらからさらに枝分かれする大量の細かい分岐、いったいどれを選択することがもっとも容易だろうか?

まあ、1なんだろうね。具体的には「森(笑)」、という態度。

飽きた。

やめます。

頭の良さそうな振りだけできたので満足。まあ、逆に悪く見えている可能性のほうが大きいけどね。

*1:森らしい言い回しだよ、けっ

*2:なつかしい言葉だ