「SIGHT」

 かつて「弓形の夜」の場として栄華を誇っていたダイナナクは、すでに廃墟と化している。この場所に中枢機能を集約させていた企業、弦月が崩壊してからというもの、ダイナナクは他のクで行き場をなくした浮浪者がたどり着く場所になっていた。
 ダイナナクに滞在していた浮浪者のあいだに、原因不明の死者が発生し始めたのは、參月ほど前からになる。はじめは弦月の保有する建物すべてが爆破された、いわゆる「月破」の際に発生した塵、いわゆる「ツキノチリ」が人体に悪影響を及ぼしているのではないかと囁かれていたが、「上層」の物たちが死者の身元を調査すると、意外な共通点が浮かび上がってきた。彼らはみな、弦月に警備員を派遣していた会社、常夜警備の社員だったのである。常夜警備は月破の際に従業員の大半を失い破綻していたが、その時仕事に従事していなかった警備員や、事務系の社員のうち、ダイナナクに流れ着いた者たちが、死を遂げていた。
 常夜警備の社員は、弦月が引き起こしていた数々の暴力や破壊行為とは関係なく、ただ契約関係によってのみ、あの夜あの場に居たというそれだけで、命を失っている。いつしか、浮浪者の死は、彼らの呪いではないかと噂されるようになった。
 壹昨日、ドキュメンタリー番組の収録で、月破の主犯にして現状の英雄、「SIGN」がダイナナクを訪れたとき、はたして彼は倒れて拾貳分後、そのまま死んだ。スタッフは苦しみながらやがて息絶える彼の姿を、壹秒も途切れるなくカメラに収め、そのまま立ち去った。

「つくる」

 部屋の中央にある緑色の球体に触れると、照明が消えた。と、同時に、小さく音楽が聴こえ始める。どこかで聴いたことがあるような気がする、ピアノの独奏。そのなかで、球体に塗られた蛍光塗料だけが、ぼんやりとした光をまとっている。
 やがて、球体は変形を始めた。突起が出現したり、元に戻ったり、波打つような顫動を繰り返す。やがて緑色の球体だったものは、人間の形に近付いていく。頭部が出来、長い胴体が形作られ、そこから脚部が生えるように現れる。そのさまは、暗闇と音楽のなかで舞踏が行われているように見えた。踊るたびに、人間に近付いていく。
 だが、足りないものがあると、僕は思った。肩から胸までがひとつながりになっている、つまり、両腕がない。そして、どれほど踊れど、他の部位が細部まで人間のものになっていこうと、それは生まれる気配すらないのだった。
 僕は、一番はじめにそうしたように、緑色の、人間になりかけているものに触れた。頭頂から愛撫するようにゆっくりと下り、首の部分を経て、肩をなぞる。そのまま滑らせて、ちょうど、ぶら下がった手のあたりにさしかかったところで、力を入れて人になりかけているものを握る。すると、勢いよく凹凸が発生して、瞬く間に腕ができた。生まれた五本の指が、強く、僕の手を握る。やはり、そうなのだろう、手は、求められることによってのみ、生まれる。納得して、僕は手を離した。
 緑色の球体だったものは、もはや、まったく、人間になっていた。もちろん、色は緑のままだが、そんなことは些細な問題といえるだろう。人間の形をしているのだから、人間と呼んでよい。僕はその手を見る。彼は、その手で物を掴むことができるのだろう。握手することができるだろう。愛する人を抱き寄せることができるだろう。そして、人を殺すこともできるのだろう。
 独奏が、止まる。

「×い××」

 墜ちていた。もの凄い早さで、大手保険会社の本社ビルの屋上から。誰もそれが何であるか、認識することができずにいるうちに、何かが潰れる音がする。形を保っていたものが、一瞬のうちにかかるあまりにも強い衝撃によって、何でもないものに変わる徴。たとえば風船、たとえば粘土、あるいは、人間。そのとき人々の脳裏を掠めたイメージは、それぞれに異なっていた。しかし、音がしたと思しき地点を見ても、そこには何の変化もない。ただ、彼らは一人残らず、青い、と感じたという。

「【人】」

 夜の公園の、奥まったところにある森のなかで、落ちている悪意を見つけた。
 悪意を身体に【入れる】と、それは自分のなかに染み込んでいく。完全に【入れる】ことができれば、それはワクチンのような役割を果たし、他者からの悪意への抗体となる。そうなれば、もはや他者との交流で傷を負うことは生涯ないのだという。しかし、そうわかっていても、悪意を【入れる】のには抵抗があった。ましてや、道に落ちていた悪意ともなれば。
 そう考えている間にも、悪意は顫動を始めた。【入】ってくる予兆だ。【入れる】のか、【入れ】ないのか、決めるまでの猶予は、もうあまり残されていない。……やはり、【入れ】たくない。僕は、手に乗せた悪意を払いのけようとした。すっ、と、取り除かれるはずだったそれは、茸を採集するときのような抵抗を僕の感覚に残す。
 もう手遅れだったようだ。悪意はもうすでに、しかも中途半端に、僕のなかに【入】ってしまったのだろう。不完全な状態で【入】った悪意は、身体のなかを漂い続け、宿主の意識を侵していく。宿主の言葉、態度、表情、すべては悪意を含んだものとなる。そうなれば当然、他者から悪意を向けられるようになる。それを取り込んで、不完全だった悪意は成長していく。やがて宿主の死とともに悪意は完成して、事切れた瞬間に吐き出されるのだという。
 ならば……最初に気付くべきだった。なぜ、ここに悪意が落ちているのか。眼の前にある大きな樹の根元に立ち、見上げる。月光のなかでそれはわずかに揺れていた。おそらく、僕もこの場所だろう。【入】ってきた不完全な悪意が、凄い早さで身体のなかを【巡】っていくのを感じる。

「やがて夜が明けて……」

 世界が断線したようなので、久しぶりに外出することにした。
 一瞬のうちに《律》が断たれたということで、猫は八本脚になっていたし、駅前の十字路は葡萄畑になっていたし、人間は完全な球体になっていた。まだ高校に通っていたころ、毎日立ち寄っていた大型書店は赤ん坊(小さく完全な球体)を売っていた。列車は粘性を帯びた正方形の塊になっていて、乗り込もうとするひとびと(完全な球体の群れ)は次々にそれと一体となっていった。発車ベルに続いて列車は空に飛び立っていく。垂直に。
 そのようにすべてが変貌した世界で、ただひとつ、町外れの小さな公園だけがそのままだった。塗装が剥げたベンチに、軋んだ音を立てるブランコ、夏には熱した鉄板のようになった滑り台、その場所だけが何も変わらずにいて、トリミングした過去の写真をそのままペーストしたように不自然だった。
 他の、すべての場所がうだるように暑いのに、公園だけにひんやりとした風が吹いていた。あるいは、ここだけがすでに死んでいたのかもしれない。死んだ場所で過ごす自分も、もう死んだのかもしれない。けれども、そこを離れる気にはなれなかった。
 三十秒ごとに形状を変える家では、完全な球体と完全な球体が、仲睦まじく暮らしている。人の形をしていたときには、罵声で満たされていた場所なのに。そこで人の形をして長い時間過ごしたわたしは、完全な球体が作り出す幸福な空間でどうすればいいのかわからない。自分も完全な球体となっているのに、なぜか自分だけが記憶を抱えていて、持て余している。馬鹿らしい話だ。この公園に居るときだけ、人の形をしていたときの暗い気持ちとともにあることができるような気がするが、しかし改めて繰り返すまでもなくわたしはもはや完全な球体でしかない。

「質疑応答」

 どこかに出かけようとするクレインは、わたしに行き先を教えてくれない。でもわたしは知っているから、問い詰めない。今、彼は着る服に迷っていた。色合いや、その日の微妙な気温の変化について熟考している。漆黒かわずかに茶色がかったものがいいのか、生地の厚さはどの程度のものにしようか。部屋の隅でそれを見つめているわたしは、今、クレインが服のこと以外に何を考えているのか気にかかる。気にかかるので――、訊く。
「ああ? うるせえな黙ってろ、ぶち殺すぞ」
 クレインは手で銃の形を作り、わたしに向けた。わたしも同じアクションを取って、「バン」と呟くと、大げさなリアクションを取って、クレインは倒れる。
 わたしは声をあげて笑う。そして、今、何を考えているのか訊く。クレインは答えずに立ち上がり、濃紺のスーツを手に取った。着替えている間、わたしは何も話さなかった。クレインが着替え終わって外に出る直前、もう一度だけ、わたしは今何を考えているのか訊いた。クレインはわたしを一瞥して、ドアを開ける。その瞬間、覆面を被ったルベールが待ち構えていて、クレインを射殺する。
 倒れたクレインを見ながら、わたしは結局、死ぬ前の人間が何を考えているのか、知ることができなかったと思う。なら、ルベールで良い。わたしは右手をポケットに滑り込ませながら、何を考えているのかルベールに訊こうとするが、彼も何か言葉を発そうとしているのを察して、訊く必要はないのかもしれないと思う。